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2011年6月21日 (火)

逸見石物語 その6~紫色の小さなシミの行方は

Ronnbunn

 Pentahidroboraiteの研究については、ようやく論文作成まで漕ぎ着けました。ある日長島教授と中井氏が来阪され、私ら筑波大学へ行ったメンバー3名とが益富先生宅へ集まって原稿を作成しました。発見に至るいきさつや露頭の状況などを私たちから聞きとりながら、論文を組み立てていかれる筑波大学チームの手際の良さに驚きました。
 その慰労会ということだったのでしょう、益富先生に連れて行っていただいたのは祇園の中華料理屋さん。その食事のおいしかったこと、未だにそれをしのぐものを食べたことはありません。
 そして1977年5月1日に布賀を訪れた4人が地元の方にいただいて持ち帰った不明鉱物は、本邦初産の含水硼酸塩鉱物五水灰ホウ石Pentahidroboraiteとして1982年8月に発行の「地学研究」誌上に原著論文を発表という形で結実しました。最初のきっかけから、実に5年余の歳月が流れたことになります。

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 さて話は戻って、Pentahidroboraiteの研究に見通しがついたあとは、その中に存在する小さな紫色のシミについても調べなければなりません。しかしあまりにも試料が小さすぎて、私たちの手には負えませんでした。筑波大学の長島研究室にすべてをおまかせすることになりました。
 それには分析に耐えうる試料を何としても手に入れる必要があり、もう一度布賀鉱山へ出かけることになりました。布賀鉱山を訪れるのは、足掛け3年の間に合計4回になりました。
 4回目は筑波大学で研究を任されている小山氏が同行し、一泊二日の採集行となりました。一年ぶりの坑内は、ずいぶん露頭が掘り進まれていましたが、その日になんとか分析に回せるだけの紫色の鉱物の試料が採集できました。翌日はもう一度坑内へ入ったあと、西露頭へ寄って紫色のスパー石やチレー石などを採集し、意気揚々と引き揚げました。試料は筑波大学へと送られ、すべてを委ねました。

 ところで、私が数年かけて調査してまとめた、ある県の産出鉱物の目録が自費出版で1978年の暮れに完成したのですが、その当時私には定職がなく、親の脛かじりとアルバイトで食いつないでいました。今ならフリーターなどと恰好のいい呼び方もありますが、昔はそんな遊び人にいい評価は与えられませんでした。
 目録完成のあと、ふと(よほど私は鈍感なんですね)自分は定職についていないんだと気が付いた。あわてて懸命に職探しをしたのですが、短期のアルバイト以外に定職は簡単には見つかりませんでした。
 そうするうちに運命の日が来ました。1981年5月、人の紹介でようやく正職員としてある事業所が開設されるときに採用していただくことができました。それは私が学生の頃から夢見ていた石に関われる仕事とは全く無縁で苦手でもある、人を相手にする仕事でした。

 就職先で新米職員として悪戦苦闘の日々が続いていた同年9月のこと、筑波大学の長島先生から突然のお手紙をいただきました。

 

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